フランス革命以前

14世紀後半からフランスはイギリスに各地を占領されていた。

1429年17歳農民の娘 ジャンヌ・ダルクがフランス王の座を狙うシャルル7世のもとを訪れ、フランスからイギリス軍を追放して王に即位させるようにとの神のお告げが合った告げた。彼女がフランス軍を率いてオルレアン北方のパテでイギリス軍を破りシャルル7世はランスで戴冠式を行い王位についた。

ジャンヌ・ダルクはパリの奪還には失敗し、1430年ブルゴーニュ軍に捕らえられイギリス軍の売り渡され、2年後フランスの宗教裁判の法廷で有罪判決ううけ、ルーアンで火あぶりの刑に処せられた。

シャルル7世は1436年16年以上に及んだ占領からパリを奪還し戻ったが、1463年までイギリス軍をフランス領土から駆逐することはできなかった。イギリス軍の占拠でパリの街は荒廃していた。

ルイ11世(在位1461〜83)の下、復活した王朝は権力を確立していった。ルイ11世治世当時にフランボワイアン式ゴシック様式で教会・美術館・図書館・貴族の館が多数修復されたり建設された。

イタリア・ルネサンスの文化は、ルネサンス最盛期の16世紀初めにフランソワ1世(在位1515〜47)治世下、フランスに伝わった。フランスの貴族は社会ははじめて、科学や地理などの学問やその発見を重視し、信仰生活より世俗での生活に価値を見出すというルネサンス的な考え方の洗礼をうけた。

ミケランジェロやラファエロに影響された建築家たちによるルネサンス時代の代表的建築物はフランソワ1世のフォンテーヌブロー宮殿やシャンティイ城のプティ・シャトーがある。

1530年代にはヨーロッパ各地に宗教改革が急速にひろまり、プロテスタントの権利を認める勅令が発布されるとカトリック貴族達との間で確執がおき、宗教戦争(1562〜98)がプロテスタント・カトリック同盟・カトリックの国王が関係しておきた。プロテスタントのナヴァール王アンリ(後のアンリ4世)の結婚を祝うためあつまったプロテスタント3000人が虐殺された。(1588年5月8日 聖バルテルミーの大虐殺)アンリ3世はルーブル宮をはなれ、翌年暗殺された。

1589年ブルボン家当主のアンリ・ド・ナヴァールがアンリ4世が国王として即位し(在位1589〜1610) ブルボン王朝を開いた。
アンリ4世は旧教徒と新教徒の間で長く続いた宗教戦争を終結させルーブル宮殿の大規模な拡張に着手するなどして王権を強化。

息子のルイ13世時代には、王母のマリー・ド・メディシスと宰相リシュリューによって、絶対主義体制が整えられた。

  

 


アンリ4世の孫のルイ14世の時代には絶対王政が確立。ルイ14世が発したされる”朕は国家なり”という言葉は絶対主義を象徴する名言として有名。商業の拡大や富の蓄積をすすめることで強い王権体制を確立するという、重商主義のコルベールを財務総監として起用し芸術面でもシャルル・ル・ブランを登用し王立絵画・彫刻アカデミーを設立、ルイ14世は1663年アカデミーの実質的な庇護者となった。

ルイ14世の治世に国家政策とはいえ、結果的に多くの芸術家や職人がしのぎを削りフランスの芸術(美術・工芸)は大きく開花した。

絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿をたてルイ14世44歳のとき、ヴェルサイユに王宮を移した。国家の歳入は前王の治世の3倍になり、度重なる戦争の勝利ににより領土を拡大した。

17世紀末〜18世紀に最盛期を迎え、華やかな王朝文化が花開いたが、長く続いた王宮の贅沢三昧により国家財政の窮乏と市民の怒りをかい、18世紀ルイ16世の時代にフランス革命が勃発した。

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